池田賢市先生講座 『教育・学校での”子どもの権利”を学ぼう』レポート(練馬区教育委員会委託 子育て学習講座)
2023年10月8日、貫井図書館にて、
池田賢市先生(中央大学)を講師にお招きし
練馬区教育委員会委託 子育て学習講座
『教育・学校での”子どもの権利”を学ぼう』
を開催しました。
池田先生のレジュメがとてもわかりやすくまとまっているので、許可を頂き、そのまま掲載いたします。
当日来られなかった方も、ぜひご覧ください!
はじめに
「子どもの権利条約」は、1989年11月20日、国連総会で満場一致で採択されました。
締約国は196か国(地域含む)。歴史上もっとも多くの国(地域)が参加している条約です。
日本の批准(=条約を承認し実行するという国としての最終的な同意手続き)は1994年で、158番目。これはかなり遅い批准でした。
では、なぜ、この条約が大切なのか。
もちろん、その「内容」の重要性(後述)があるのですが、その前に「形式」的な重要性があります。それは、国際条約に批准した場合、その条約は、その国の国内法よりも上位の効力をもつことになる、というものです(憲法→条約→法律・・・)。そして、日本国憲法の第98条に「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と謳われています。つまり、日本の国内の法律(少なくとも子ども施策に関するもの)は、「子どもの権利条約」の趣旨に沿っていなければならず、必要があれば法律改正も行われねばならない、ということになります。
国連は、条約批准国がしっかりとその趣旨を踏まえた国内施策を展開しているかどうか審査をします。これまで日本は「子どもの権利条約」をめぐる審査で、教育が過度の競争にさらされていることなど多くの指摘を受けてきています。しかし、その改善はまったく進んでいません。わたしたち自身が、この条約の内容・趣旨を学び、その視点から国内のさまざまな施策をチェックしていく必要があります。
1. 条約の内容構成
条約の内容は、次の4つに分類されます。
→生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利
重要な点は、「参加する権利」です。これまで「子ども」といえば「弱い存在」なのだから、まずは「守られる」必要があるという認識でした。もちろん、それは大切なのですが、この条約の重要性は、社会を構成しているメンバーとして子どもには「参加する権利」があることを確認した点にあります。
2. 子どもの最善の利益
「子どもの権利条約」のキータームは、「子どもの最善の利益」です。
第3条を見てみましょう。
[第3条] -子どもの最善の利益―
子どもに関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、子どもの最善の利益が主として考慮されるものとする。
子どもに関するさまざまな施策は「子どもの最善の利益」を優先してつくられていくべきだということですが、では、何が最善であるかを誰がどのようにして知ることができるのか。結局は、「おとな」が「その経験を活かして子どものためを思って考えていくことになるんだよね」というように理解されやすいのですが、この認識は誤りです。
「子どもの最善の利益」を条約の原文である英語(国連の公用語は6か国語ありますが、日本政府は英語から翻訳することが通常ですので英語を見てみます)でどう表現されているかを確認してみると、the best interests of the childとなっています。「利益」と訳されている部分は、interestsとなっています。interestsは、(ここでは複数形になっているので)利益や利権という意味で使用される場合もありますが、「興味」「関心(事)」といった意味が元です。もし、条文のこの部分を「子どもが最も関心をもっていることを主として考慮するものとする」と訳していたら、だいぶイメージは変わるのではないでしょうか。
この第3条の趣旨がこのようなものだとすれば、「結局はおとなが決める」という認識は成り立ちません。何に興味があり、何に関心をもっているのかを知るには、子ども本人に聞いてみるしかありません。そこで、第12条の「意見表明権」へとつながっていくわけです。
(この第3条は第12条と合わせて理解されることになっています。)
3. 子どもの意見表明権
[第12条] -意見表明権-
締約国は、自己の意見を形成する能力のある子どもがその子どもに影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
これは、「子どもの権利条約」の中でも極めて重要な条文とされています。条約のポイントは、「参加する権利」でした。その「参加」をしっかり保障していく大前提が、この第12条の「意見表明権」です。
つまり、子どもたちは、自分に関するさまざまなことがらについて意見を言うことができる、ということです。もう少し踏み込んで言えば、たとえば、子どもにかかわる政策を決定しようとするときには、子どもたちの意見を聞かなくてはならない、ということになります。「政策」というかなり大きな決定であっても、子どもには必ず意見を表明する権利が確保されていなければならない、ということになります。
もちろん、おとなの側の責任としては、単に意見を聞けばいいだけではなく、それを十分に尊重した決定をしなければならない、ということになります。そうでなければ、ただ言わせているだけになってしまいます。(日本では、発言の機会さえ確保されていない・・・)
これについて、子どもの側にも、責任をもって発言することが求められてくる、という意見もあります。しかし、これを強調しすぎると、結局、子どもは発言できなくなります。
4. 意見表明権への「誤解」
おそらく「意見表明権」の趣旨そのものに反対する人は少ないかもしれませんが、意見を言うためには、「ある程度、言語による表現力がついている子どもでないとなかなかむずかしいのではないか」と感じる人も多いかと思います。
このような印象をもって条文を読むと、「自己の意見を形成する能力のある子ども」という部分は、まさにそのような意味に読み取れてしまいます。具体的に言えば、たとえば、小学校の3・4年生くらい、あるいはやはり6年生ぐらいにならないと自分の意見を伝えるというのは難しいのではないか、だから、そのような能力を高めていく教育が必要だ、と。
また、「子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮される」という部分も、たとえば、幼稚園児が言ったことは、6年生が言う意見とはかなり質が違うだろうから、まだ幼い子どもが言ったことについては、未熟なのだということを考えた上で、ある程度は取り入れたとしても、全面的に信用することにはならないのではないか、と。
実は、このように解釈することは「まちがい」です。趣旨は、まったく反対のことなのです。では、どう解釈するのか。
わかりやすく言えば、生まれたばかりの子どもにも「意見を形成する能力」があるととらえます。なぜなら、不満があればしっかりと泣きますよね! これは立派な意見表明だ、と考えるわけです。まさに赤ちゃんは、自分にかかわることについて、つねにしっかりと反応しています。
つまり、「自己の意見を形成する能力」の<ある子ども>と<ない子ども>がいて、<ある子ども>に対して認められている権利だということではなく、子どもというものは、そもそも「自己の意見を形成する能力」がある存在なのだ、とこの条文は言っているわけです。
これまでのいろいろな国際条約や宣言では、子どもは保護される存在としてしか考えられてきませんでした。それに対して、この「子どもの権利条約」は、これまでの子ども観をガラッと変えて、子どもというものは自分の意見を述べることができる存在であり、社会に参加する権利をもっている存在なのだ、と位置づけなおしたわけです。
もちろん、うまく意見が言える子どももいれば、なかなかことばにならない子どももいます。(意見は常に言語によってなされるとも限りません。) だからこそ、「子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮」されなければならないわけです。条文のこの部分は、しっかりと意見の言える子どもの意見をより尊重するという意味ではなく、どんな子どもも正しく自分の意見を述べているのであって、ただその表現が伝わりにくいこともあるから、その子どもの特徴(年齢や成熟度など)をおとなの側はしっかりと意識(配慮・考慮)して、その意見を理解していくようにしなければならない、ということを述べているわけです。
赤ちゃんが泣いている場合、何らかの意見が表明されているわけですが、おとながすぐに理解できるような表現方法ではありません。そこで、この子がいま泣いているのはなぜなのかを正しく理解する努力がおとなの側に求められている、ということになります。
5. 学校が想定する子ども観の問題性
赤ちゃんに限ったことではなく、どんな子どもの意見も、正しく理解されていくためには、日頃からコミュニケーション(人間的な環境の中で生活し、かかわりを深めていくということ)が活発に行われていなくてはなりません。そこで一定の信頼関係がつくられていくことで、意見は正しく理解され、また、子どもも、どうすれば正しく伝わるかを学んでいきます。
ところが、日本では、意見表明権に関しては、学校現場になかなか浸透していません。理由として、子どもに意見を言わせると「わがまま」になってしまう、という懸念が多く語られています。「意見を言うこと」と「わがまま」とは全く異なるものですが、どうやら学校ではそのようにとらえてしまうようです。子どもは「教育される」存在、つまり「受け身」の存在とみられているからでしょう。学校に子どもたちが「参加」していくことが日本の教育現場ではなかなかイメージしにくいのだと思います。
この壁をどう打ち破っていくか。学校(教員)ばかりではなく、おとなたち全体がもっている「子ども観」を問い直していくことが必要になってきます。
では、学校は、どんな「子ども観」を前提としているのか。
子どもを「動物」「白紙」「植物」などにたとえて教育をイメージすることは、これまで教育学の世界ではよく語られてきました。動物に芸を仕込むように知識の伝達をイメージしたり、子どもは何も知らないのだから、その状態を白紙にたとえ、そこに文字を印刷するように学習計画を立てていくべきだとイメージしたり、あるいは、子どもは植物の種のように、育っていく要素はすでに持っているのだから、それが発芽し伸びていくために必要な(水分や日光といった)環境を整えることが教育である、とイメージしたり。
これらの比喩は、教育現場のいろいろな場面でいかにも当てはまりそうですが、なぜ、子どもをわざわざ人間以外のものにたとえなくてはならないのでしょうか。おそらく、子どものことを「未熟」な存在だとみなしているからでしょう。というより、未熟どころか、子どもは「人間」ではないと思われているわけです。だから、教育によって「人間」にするのだ、それが学校の使命なのだ、というイメージになります。子どもには何か「欠けている」ところがあると想定し、それを「完成」していく過程を教育と呼んでいるわけです。
ここで、ぜひ自分が「子ども」だったときのことを思い出してください。自分は何かが欠けている存在だと思って過ごしていたでしょうか。「欠けている」どころか、むしろ、「充満」していたのではないですか。いろいろなことを考え、悩み、将来のことにも思いをめぐらせていたはずです。当たり前ですが、しっかりとした「人格」を備えてもいます。「大人」から見て「未熟」に見えるのは、経験の差で説明できるものであったり、あるいは、単なる「違い」を、「大人」が勝手に価値を低めて「未熟」と言っているだけなのではないでしょうか。
知識を伝えようとする相手を人間だと認識していないのだとすれば、そこでの行為が権力的支配・被支配関係を正当化していくのは当然です。かつてから、憲法の理念やその具体的な規定が学校の中に入っていかないことを批判する議論がありました。その状況は今日も変わりません。憲法(もちろん種々の国際条約も含め)で保障されている基本的人権が、こんなにも踏みにじられるのは、子どもを「人間」とみていないからです。
6. 学校という場の権力性
とはいえ、学校は、知識を持つ教員が知識を持たない子どもに対して一定の内容を教えていくことを中核にして成り立っているのだから、どうしてもそこに権力関係が成立してしまうのではないか、との疑問はあり得ます。
しかし、日常生活の中でわたしたちがつねに行っている教えたり教えられたりといった行動を思い出してみても、そこに権力的支配関係が構築されるなどということはなりません。つまり、単に「教える」という行為の必然的結果として(教えられる者との間に)「権力関係」が発生しているわけではないということになります。
ということは、問題は学校という「場」にあることがわかります。そこで、学校の特徴を見つめ直し、その問題性を確認し、どこから修正可能かを考える必要が出てきます。
ここで、とくに子どもから見たときの「学校の特徴」を思いつくままに挙げてみます。
各人には番号(出席番号等)がついている。
1日に何度も点呼を取られる。
名札を付ける。
服装が統一されている(履物や髪型等も統一される場合がある)。
持ち込める物には制限がある(持ち物検査がある場合もある)。
授業(作業の)時間や内容はあらかじめ決められている。
いつでも質問・相談できるわけではなく、手を挙げて指名されなければならない。
授業(作業)中は静かにし、発言は手を挙げ、許可されたときに可能となる。
トイレに行くときも許可が必要な時がある。
食事の時間と内容も決められている。
登下校の時間が決められている(したがって朝起きる時間に決まってくる)。
無断で外には出られない。
使用している教室などの掃除をしなくてはならない。
整列させられることが多い。
号令をかけられることがある。
規則に反すると罰則がある。
教員(管理者・監督者)の指示には従わなくてはならない。
外部とは壁(コンクリートなど比較的頑丈なもの)で隔てられている。
年に何回か全員参加の行事(教員付き添いで外部に出かける場合も)がある。
集団行動(秩序)が重視される。
一定の年数が経たないとこの環境からは出られない。
この調子で列挙していけば、もっと多くの内容を加えることができるでしょう。もちろん、これらをすべて悪として否定したいのではありません。すでに察しがついていると思いますが、これに似た特徴をもつ場所が他にもあります。
それは、刑務所、病院(入院している場合)、軍隊、そしてかなり管理された工場も加えることができるでしょう。これらの機関(環境)では、なるべく人々の自由を抑制するという共通点があります。つまり、権利に対して一定の制限をかけるわけです。その中のひとつが学校だ、ということになります。この指摘はすでにミシェル・フーコー(1926-1984年)というフランスの哲学者によってなされています。
象徴的な共通例をひとつ指摘するとすれば、「無断で外には出られない」状況においてそれを無視してその施設から出て行けば、「脱走」と表現される、という点があります。これは、刑務所や軍隊では当てはまりますが、果たして学校や病院にも同様のことがいえるのかとの疑問もあるでしょう。しかし、病院でそのような患者をどう表現しているかはわかりませんが、少なくとも学校では、実際に、許可なく教室や学校から走り出て行った子どもに対して、「〇〇が脱走した!」と叫んでいる教員をわたしは何人も知っています。学校というところは、「脱走」という言葉と親和性があるわけです。
このように指摘してくると、次のような反論が出るでしょう。学校は成長途上の子どもを相手にしているのであって、一定の管理・監視の下で運営されなければ安心・安全な環境が用意できない(工場ならそうかもしれませんが)、と。しかし、本当にそうなのでしょうか。
ちなみに、セキュリティ(security:安心・安全)の動詞形(secure:安全にする)には「監禁する」という意味もあります。確かに、閉じ込めておけば「安心」ですね。しかし、それは誰にとっての安心なのか。監禁状態での学習とは、いったいどんな性質のものなのか。
以上のことからわかることは、学校は、何もしなければ、「自然と」子どもたちの権利を侵害してしまう可能性をあらかじめもたされている、ということです。つまり、一定の権力的な支配関係の中で運営されているわけです。よほど教員が注意をしておかないと、学校での教員の発言は、どんなに穏やかになされたとしても「命令的」にならざるを得ない宿命を負わされています。これは日本に限ったことではなく、学校という機関そのものが子どもの権利や人権という発想とは相性がよくない、ということでもあります。だからこそ、意識的に「人権」や「権利」という言葉を掲げておく必要があるわけです。
7. 「そろえる」ことにこだわらない
では、どうすれば、このような権利侵害になりやすい環境を変えられるのか。
まず、学校生活のさまざまな場面で子どもたちを「そろえよう」としないことです。たとえば、子どもたちを整列させる必要はなく、ただ「集まって~」と言えば、自ずと声が聞こえ、見える位置に寄って来るはずです。全体がそろうことに拘泥しないようになれば、学校行事の練習も必要ありません。一生懸命練習してしまうから、当日、練習通りにならないことが気になってしまうわけです。意外なハプニングも楽しめません。それはミスとしてマイナスに評価されていきます。せっかくみんなで笑い合えるチャンスだったのに。
また、教室は子どもたちの生活の場なのですから、子どもたちが暮らしやすいように変化していくべきです。きれいに並べられた机と椅子が「秩序」を示すものなのではなく、そこに子どもたちが入り生活が始まって、少しずつ熱を帯び、机も椅子も動き出すことに着目していったらどうでしょうか。子どもたちが暮らしやすいように配置が自然と決まってくる、まさにそのことこそ「秩序」形成だ、と。
8. 自分で決める経験を
いま学校では、子どもたちが「自分で決める」場面が少ないように思います。民主主義社会は、人々が自分で決めるということで成り立ちます。その経験は、学校でこそ有効に用意できるはずです。結果の良し悪しではなく、自分で決めたという事実こそが重要。
市民にとって本来重要なのは、何をうるかよりも如何にしてうるかであり、権利のもたらす果実よりも権利の存在そのものであるという観念は、戦後世代になお一貫して定着していないようにみえる。
つまり、ここには、みずからの下した悪しき決定は、その成果をみずからの責任として苅りとらねばならないとしても、なお何らの発言権なしに自己の利益のためにとられた一方的措置よりも好ましいものである、というデモクラシーの原理的認識が、まだ相対的にみて稀薄なわけである。
これは、宮田光雄著『現代日本の民主主義』(岩波新書、1969年、132~133頁)からの引用です。もう、50年以上前の本です。その段階ですでに民主主義の原理が希薄だ、定着していないと指摘されているわけです。今日に至っても状況は変わっていないと思います。定着しないにもほどがあります。
子どもたちの行動を管理し、統制しようとするから、そこに「指導」が必要になるのであって、それがなければ、子どもたちの相互の関係の中から、問題を解決するにふさわしい方法が(時間はかかるかもしれないが)考え出されるはずです。そのためには、子どもたちの一見すると「はみ出す」ような行動に、おとなたちがどれだけ「がまん」できるか、が重要になってきます。
9. 「準備」ではない学びを
学校経験が長くなるほど、子どもたちはどんどん「考えなくなる」のではないかと思います。つまり、学校に行けば行くほど教育の権利がどんどん侵害されているということになるわけです。なぜ、こんなことが起こってしまうのでしょうか。
それは、将来のための「準備」だと言われながら学習しているからではないでしょうか。いま、ここで学んでいる内容自体に意味を見出すのではなく、それが将来の自分の生活保障の条件になっているから意味があるのだと言われているわけです。子どもにとって、この状況は強烈な脅しになります。学級のなかは、失敗が許されない雰囲気となるでしょう。失敗した者は、他の子どもたちからは、「あのようになってはならない見本」のように見られ、近づかないほうがいい存在にさせられていくのではないか。当然、排除の力が働き、実際に、いじめの対象になったり、あるいは、特別支援が必要だと言われて、学級から消えていくことになるかもしれません。
「準備」という発想は、学校教育を成立させるためには非常に便利です。まさに「予測不可能」という現在の教育政策が得意とするフレーズと同じで、漠然とした将来への不安を掻き立て、「どうなるかわからないぞ」と言われてしまうのですから、とにかく必要だと言われたものに対応していくしかありません。自分の意志とは関係のないことを、かなりの時間をかけて成し遂げていかなくてはならないわけで、相当につらいはずです。しかし、うまく成果を出せばほめてもらえるのだから、子どもとしては「がんばる」しかないわけです。
このような発想は、人生の最初の時期にまでどんどんと遡って「準備」していくことを正当化してしまいます。将来の生活の安定のために高い学歴を取得することが必要とされ、そのために塾に通い、家庭学習に一生懸命になり、保護者もその養育態度が問われ、良い成績に結びつくような家庭環境の整備に必死になっていきます。3歳から掛け算の学習を始めたりするケースも珍しくなくなってきています。この罠からなかなか抜け出せない。
このような「準備」は、どんどん低年齢化していき、また、家庭や親の責任にまで話が広がっていきます。子どもたちは、小学校に入る前から、ず~っと「準備」に追われています。一体いつ「本番」が来るのでしょうか。たぶん、それは来ないでしょう。自分の本心から立てた目標ではなく、「困るぞ」と脅されているだけの、準備のための準備だからです。
では、この「逆算」の思考をもっとつづけ、遡っていくと、どこに行きつくのか。
→:相関関係
家庭・親 → 学校(学歴) → 就職(生活条件)
⬅:逆算の思考
???? ⬅ ⬅ ⬅ ⬅
おそらく「遺伝子」でしょう。「優秀な」遺伝子が欲しい、ということになるわけです。つまり、優生思想につながっていく発想です。能力主義に基づく、優生思想。これが、日本の学校教育を支えている原理なのです。この部分から、根底的に変えていかないと、さまざまに語られる教育問題は解決しません。
この点は、2022年9月に出された、国連の障害者権利委員会からの日本政府への勧告の中でも指摘されています。つまり、「優生思想や能力主義的な考え方と、そのような考え方を社会に広めたことに対する法的責任との闘いを目指して津久井やまゆり園事件を検討すること」(Review the Tsukui Yamayuri-en case aiming at combating eugenic and ableist attitudes and legal liability for promotion of such attitudes in society)と。具体的に、あの障害者虐殺事件を挙げて、指摘されたわけです。
おわりに ―憲法の25条と26条を切り離す―
「逆算」するのではなく、家庭環境と学歴、学歴と生活条件との間の相関関係を断ち切るような思考をしたいと思います。そうでないと、教育への権利も生存権も確保されている状態とは言えなくなってしまいます。学校では、何のための「準備」なのかを真剣に問う余裕は与えられず(教員も子どもも)、ただ将来への不安があおられていくだけです。がんばらないと(努力しないと)いけないし、効率も求められる。本来は、今まで知らなかったことを知る、そのこと自体でかなりの刺激を受けるはずなのですが、「準備」と言われると、「役に立つのかどうか」が気になってしまいます。すぐに「成果」が出ないと焦ってしまいます。
学校での「成功」が「生活(生存権)」と結びついている(と信じられている)ので、その不安に駆り立てられて、「準備」するしかないのが現状です。それは、「逆算」的思考を一般化させます。おそらく現在では、どの大学でも、新入生に対して、まだ授業が始まる前から就職についてのガイダンスが始まっています。理由は、将来の目標(といっても「就職」ということ)から「逆算」して大学での4年間の過ごし方を設計するため、ということです。
日本国憲法の第25条は「生存権」の規定であり、人として最低限度の生活が保障されるよう国にその責任を課しています。しかし、実態(思い込みも含めて)としては、高学歴者のほうにより安定的な生存権が確保されています。生活保護はバッシングを受けるわけです。したがって、生存権を確保するためにわたしたちは、一生懸命になって学歴を獲得できるような(学校での成績を上げるような)学習に没入していくしかありません。この学習は、いかに他者の要求に従うかの競争でもあります。つまり、いかに受け身になるかの競争(=積極的受け身)をし、それに勝ち抜いた者が生存権を確保される、ということになるわけです。
日本国憲法の第26条は「教育権」の規定です。教育が権利である限り、それは「自由」によって支えられていなければなりません。ところが、学校での学びは、生存権を人質に取られているので、自由に学ぶことができません。自分の知りたいことよりも、教員が提示する知識内容に関心を向け、それを効率よく習得することに邁進するしかない。
こうしてわたしたちは、生存権も教育権も売り渡し(放棄し)、自発的に隷従していくことになります。いったい誰(何)に隷従しているのか。その解答は複数あり得ますが、たとえば、国家としての経済発展に寄与する人材になれと言っている者への従属・・・。いずれにしても期待されているのは、「人材(財)」としての人間であり、道具(手段)としての存在になること、そうなることが権利の保障だと言える人間になること、ということでしょう。
教育を保障するはずの「制度」がかえって学びの権利を奪っているのが日本の現状です。日本国憲法の第25条と第26条との不幸な結びつきを解きほぐしていかないと教育が優生思想を正当化する方向にどんどん進んでいってしまいます。
準備としての学びではなく、知ること、考えること自体に意義があり、それゆえに生活が楽しくなるような学級を、子どもと教職員とがともに創造できるような活動を模索したいと思います。そのことがそのまま子どもの人権保障になっていくはずです。
池田賢市先生講座 『教育・学校での”子どもの権利”を学ぼう』レポート(練馬区教育委員会委託 子育て学習講座)
2023年10月8日、貫井図書館にて、
池田賢市先生(中央大学)を講師にお招きし
練馬区教育委員会委託 子育て学習講座
『教育・学校での”子どもの権利”を学ぼう』
を開催しました。
池田先生のレジュメがとてもわかりやすくまとまっているので、許可を頂き、そのまま掲載いたします。
当日来られなかった方も、ぜひご覧ください!
はじめに
「子どもの権利条約」は、1989年11月20日、国連総会で満場一致で採択されました。
締約国は196か国(地域含む)。歴史上もっとも多くの国(地域)が参加している条約です。
日本の批准(=条約を承認し実行するという国としての最終的な同意手続き)は1994年で、158番目。これはかなり遅い批准でした。
では、なぜ、この条約が大切なのか。
もちろん、その「内容」の重要性(後述)があるのですが、その前に「形式」的な重要性があります。それは、国際条約に批准した場合、その条約は、その国の国内法よりも上位の効力をもつことになる、というものです(憲法→条約→法律・・・)。そして、日本国憲法の第98条に「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と謳われています。つまり、日本の国内の法律(少なくとも子ども施策に関するもの)は、「子どもの権利条約」の趣旨に沿っていなければならず、必要があれば法律改正も行われねばならない、ということになります。
国連は、条約批准国がしっかりとその趣旨を踏まえた国内施策を展開しているかどうか審査をします。これまで日本は「子どもの権利条約」をめぐる審査で、教育が過度の競争にさらされていることなど多くの指摘を受けてきています。しかし、その改善はまったく進んでいません。わたしたち自身が、この条約の内容・趣旨を学び、その視点から国内のさまざまな施策をチェックしていく必要があります。
1. 条約の内容構成
条約の内容は、次の4つに分類されます。
→生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利
重要な点は、「参加する権利」です。これまで「子ども」といえば「弱い存在」なのだから、まずは「守られる」必要があるという認識でした。もちろん、それは大切なのですが、この条約の重要性は、社会を構成しているメンバーとして子どもには「参加する権利」があることを確認した点にあります。
2. 子どもの最善の利益
「子どもの権利条約」のキータームは、「子どもの最善の利益」です。
第3条を見てみましょう。
[第3条] -子どもの最善の利益―
子どもに関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、子どもの最善の利益が主として考慮されるものとする。
子どもに関するさまざまな施策は「子どもの最善の利益」を優先してつくられていくべきだということですが、では、何が最善であるかを誰がどのようにして知ることができるのか。結局は、「おとな」が「その経験を活かして子どものためを思って考えていくことになるんだよね」というように理解されやすいのですが、この認識は誤りです。
「子どもの最善の利益」を条約の原文である英語(国連の公用語は6か国語ありますが、日本政府は英語から翻訳することが通常ですので英語を見てみます)でどう表現されているかを確認してみると、the best interests of the childとなっています。「利益」と訳されている部分は、interestsとなっています。interestsは、(ここでは複数形になっているので)利益や利権という意味で使用される場合もありますが、「興味」「関心(事)」といった意味が元です。もし、条文のこの部分を「子どもが最も関心をもっていることを主として考慮するものとする」と訳していたら、だいぶイメージは変わるのではないでしょうか。
この第3条の趣旨がこのようなものだとすれば、「結局はおとなが決める」という認識は成り立ちません。何に興味があり、何に関心をもっているのかを知るには、子ども本人に聞いてみるしかありません。そこで、第12条の「意見表明権」へとつながっていくわけです。
(この第3条は第12条と合わせて理解されることになっています。)
3. 子どもの意見表明権
[第12条] -意見表明権-
締約国は、自己の意見を形成する能力のある子どもがその子どもに影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
これは、「子どもの権利条約」の中でも極めて重要な条文とされています。条約のポイントは、「参加する権利」でした。その「参加」をしっかり保障していく大前提が、この第12条の「意見表明権」です。
つまり、子どもたちは、自分に関するさまざまなことがらについて意見を言うことができる、ということです。もう少し踏み込んで言えば、たとえば、子どもにかかわる政策を決定しようとするときには、子どもたちの意見を聞かなくてはならない、ということになります。「政策」というかなり大きな決定であっても、子どもには必ず意見を表明する権利が確保されていなければならない、ということになります。
もちろん、おとなの側の責任としては、単に意見を聞けばいいだけではなく、それを十分に尊重した決定をしなければならない、ということになります。そうでなければ、ただ言わせているだけになってしまいます。(日本では、発言の機会さえ確保されていない・・・)
これについて、子どもの側にも、責任をもって発言することが求められてくる、という意見もあります。しかし、これを強調しすぎると、結局、子どもは発言できなくなります。
4. 意見表明権への「誤解」
おそらく「意見表明権」の趣旨そのものに反対する人は少ないかもしれませんが、意見を言うためには、「ある程度、言語による表現力がついている子どもでないとなかなかむずかしいのではないか」と感じる人も多いかと思います。
このような印象をもって条文を読むと、「自己の意見を形成する能力のある子ども」という部分は、まさにそのような意味に読み取れてしまいます。具体的に言えば、たとえば、小学校の3・4年生くらい、あるいはやはり6年生ぐらいにならないと自分の意見を伝えるというのは難しいのではないか、だから、そのような能力を高めていく教育が必要だ、と。
また、「子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮される」という部分も、たとえば、幼稚園児が言ったことは、6年生が言う意見とはかなり質が違うだろうから、まだ幼い子どもが言ったことについては、未熟なのだということを考えた上で、ある程度は取り入れたとしても、全面的に信用することにはならないのではないか、と。
実は、このように解釈することは「まちがい」です。趣旨は、まったく反対のことなのです。では、どう解釈するのか。
わかりやすく言えば、生まれたばかりの子どもにも「意見を形成する能力」があるととらえます。なぜなら、不満があればしっかりと泣きますよね! これは立派な意見表明だ、と考えるわけです。まさに赤ちゃんは、自分にかかわることについて、つねにしっかりと反応しています。
つまり、「自己の意見を形成する能力」の<ある子ども>と<ない子ども>がいて、<ある子ども>に対して認められている権利だということではなく、子どもというものは、そもそも「自己の意見を形成する能力」がある存在なのだ、とこの条文は言っているわけです。
これまでのいろいろな国際条約や宣言では、子どもは保護される存在としてしか考えられてきませんでした。それに対して、この「子どもの権利条約」は、これまでの子ども観をガラッと変えて、子どもというものは自分の意見を述べることができる存在であり、社会に参加する権利をもっている存在なのだ、と位置づけなおしたわけです。
もちろん、うまく意見が言える子どももいれば、なかなかことばにならない子どももいます。(意見は常に言語によってなされるとも限りません。) だからこそ、「子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮」されなければならないわけです。条文のこの部分は、しっかりと意見の言える子どもの意見をより尊重するという意味ではなく、どんな子どもも正しく自分の意見を述べているのであって、ただその表現が伝わりにくいこともあるから、その子どもの特徴(年齢や成熟度など)をおとなの側はしっかりと意識(配慮・考慮)して、その意見を理解していくようにしなければならない、ということを述べているわけです。
赤ちゃんが泣いている場合、何らかの意見が表明されているわけですが、おとながすぐに理解できるような表現方法ではありません。そこで、この子がいま泣いているのはなぜなのかを正しく理解する努力がおとなの側に求められている、ということになります。
5. 学校が想定する子ども観の問題性
赤ちゃんに限ったことではなく、どんな子どもの意見も、正しく理解されていくためには、日頃からコミュニケーション(人間的な環境の中で生活し、かかわりを深めていくということ)が活発に行われていなくてはなりません。そこで一定の信頼関係がつくられていくことで、意見は正しく理解され、また、子どもも、どうすれば正しく伝わるかを学んでいきます。
ところが、日本では、意見表明権に関しては、学校現場になかなか浸透していません。理由として、子どもに意見を言わせると「わがまま」になってしまう、という懸念が多く語られています。「意見を言うこと」と「わがまま」とは全く異なるものですが、どうやら学校ではそのようにとらえてしまうようです。子どもは「教育される」存在、つまり「受け身」の存在とみられているからでしょう。学校に子どもたちが「参加」していくことが日本の教育現場ではなかなかイメージしにくいのだと思います。
この壁をどう打ち破っていくか。学校(教員)ばかりではなく、おとなたち全体がもっている「子ども観」を問い直していくことが必要になってきます。
では、学校は、どんな「子ども観」を前提としているのか。
子どもを「動物」「白紙」「植物」などにたとえて教育をイメージすることは、これまで教育学の世界ではよく語られてきました。動物に芸を仕込むように知識の伝達をイメージしたり、子どもは何も知らないのだから、その状態を白紙にたとえ、そこに文字を印刷するように学習計画を立てていくべきだとイメージしたり、あるいは、子どもは植物の種のように、育っていく要素はすでに持っているのだから、それが発芽し伸びていくために必要な(水分や日光といった)環境を整えることが教育である、とイメージしたり。
これらの比喩は、教育現場のいろいろな場面でいかにも当てはまりそうですが、なぜ、子どもをわざわざ人間以外のものにたとえなくてはならないのでしょうか。おそらく、子どものことを「未熟」な存在だとみなしているからでしょう。というより、未熟どころか、子どもは「人間」ではないと思われているわけです。だから、教育によって「人間」にするのだ、それが学校の使命なのだ、というイメージになります。子どもには何か「欠けている」ところがあると想定し、それを「完成」していく過程を教育と呼んでいるわけです。
ここで、ぜひ自分が「子ども」だったときのことを思い出してください。自分は何かが欠けている存在だと思って過ごしていたでしょうか。「欠けている」どころか、むしろ、「充満」していたのではないですか。いろいろなことを考え、悩み、将来のことにも思いをめぐらせていたはずです。当たり前ですが、しっかりとした「人格」を備えてもいます。「大人」から見て「未熟」に見えるのは、経験の差で説明できるものであったり、あるいは、単なる「違い」を、「大人」が勝手に価値を低めて「未熟」と言っているだけなのではないでしょうか。
知識を伝えようとする相手を人間だと認識していないのだとすれば、そこでの行為が権力的支配・被支配関係を正当化していくのは当然です。かつてから、憲法の理念やその具体的な規定が学校の中に入っていかないことを批判する議論がありました。その状況は今日も変わりません。憲法(もちろん種々の国際条約も含め)で保障されている基本的人権が、こんなにも踏みにじられるのは、子どもを「人間」とみていないからです。
6. 学校という場の権力性
とはいえ、学校は、知識を持つ教員が知識を持たない子どもに対して一定の内容を教えていくことを中核にして成り立っているのだから、どうしてもそこに権力関係が成立してしまうのではないか、との疑問はあり得ます。
しかし、日常生活の中でわたしたちがつねに行っている教えたり教えられたりといった行動を思い出してみても、そこに権力的支配関係が構築されるなどということはなりません。つまり、単に「教える」という行為の必然的結果として(教えられる者との間に)「権力関係」が発生しているわけではないということになります。
ということは、問題は学校という「場」にあることがわかります。そこで、学校の特徴を見つめ直し、その問題性を確認し、どこから修正可能かを考える必要が出てきます。
ここで、とくに子どもから見たときの「学校の特徴」を思いつくままに挙げてみます。
各人には番号(出席番号等)がついている。
1日に何度も点呼を取られる。
名札を付ける。
服装が統一されている(履物や髪型等も統一される場合がある)。
持ち込める物には制限がある(持ち物検査がある場合もある)。
授業(作業の)時間や内容はあらかじめ決められている。
いつでも質問・相談できるわけではなく、手を挙げて指名されなければならない。
授業(作業)中は静かにし、発言は手を挙げ、許可されたときに可能となる。
トイレに行くときも許可が必要な時がある。
食事の時間と内容も決められている。
登下校の時間が決められている(したがって朝起きる時間に決まってくる)。
無断で外には出られない。
使用している教室などの掃除をしなくてはならない。
整列させられることが多い。
号令をかけられることがある。
規則に反すると罰則がある。
教員(管理者・監督者)の指示には従わなくてはならない。
外部とは壁(コンクリートなど比較的頑丈なもの)で隔てられている。
年に何回か全員参加の行事(教員付き添いで外部に出かける場合も)がある。
集団行動(秩序)が重視される。
一定の年数が経たないとこの環境からは出られない。
この調子で列挙していけば、もっと多くの内容を加えることができるでしょう。もちろん、これらをすべて悪として否定したいのではありません。すでに察しがついていると思いますが、これに似た特徴をもつ場所が他にもあります。
それは、刑務所、病院(入院している場合)、軍隊、そしてかなり管理された工場も加えることができるでしょう。これらの機関(環境)では、なるべく人々の自由を抑制するという共通点があります。つまり、権利に対して一定の制限をかけるわけです。その中のひとつが学校だ、ということになります。この指摘はすでにミシェル・フーコー(1926-1984年)というフランスの哲学者によってなされています。
象徴的な共通例をひとつ指摘するとすれば、「無断で外には出られない」状況においてそれを無視してその施設から出て行けば、「脱走」と表現される、という点があります。これは、刑務所や軍隊では当てはまりますが、果たして学校や病院にも同様のことがいえるのかとの疑問もあるでしょう。しかし、病院でそのような患者をどう表現しているかはわかりませんが、少なくとも学校では、実際に、許可なく教室や学校から走り出て行った子どもに対して、「〇〇が脱走した!」と叫んでいる教員をわたしは何人も知っています。学校というところは、「脱走」という言葉と親和性があるわけです。
このように指摘してくると、次のような反論が出るでしょう。学校は成長途上の子どもを相手にしているのであって、一定の管理・監視の下で運営されなければ安心・安全な環境が用意できない(工場ならそうかもしれませんが)、と。しかし、本当にそうなのでしょうか。
ちなみに、セキュリティ(security:安心・安全)の動詞形(secure:安全にする)には「監禁する」という意味もあります。確かに、閉じ込めておけば「安心」ですね。しかし、それは誰にとっての安心なのか。監禁状態での学習とは、いったいどんな性質のものなのか。
以上のことからわかることは、学校は、何もしなければ、「自然と」子どもたちの権利を侵害してしまう可能性をあらかじめもたされている、ということです。つまり、一定の権力的な支配関係の中で運営されているわけです。よほど教員が注意をしておかないと、学校での教員の発言は、どんなに穏やかになされたとしても「命令的」にならざるを得ない宿命を負わされています。これは日本に限ったことではなく、学校という機関そのものが子どもの権利や人権という発想とは相性がよくない、ということでもあります。だからこそ、意識的に「人権」や「権利」という言葉を掲げておく必要があるわけです。
7. 「そろえる」ことにこだわらない
では、どうすれば、このような権利侵害になりやすい環境を変えられるのか。
まず、学校生活のさまざまな場面で子どもたちを「そろえよう」としないことです。たとえば、子どもたちを整列させる必要はなく、ただ「集まって~」と言えば、自ずと声が聞こえ、見える位置に寄って来るはずです。全体がそろうことに拘泥しないようになれば、学校行事の練習も必要ありません。一生懸命練習してしまうから、当日、練習通りにならないことが気になってしまうわけです。意外なハプニングも楽しめません。それはミスとしてマイナスに評価されていきます。せっかくみんなで笑い合えるチャンスだったのに。
また、教室は子どもたちの生活の場なのですから、子どもたちが暮らしやすいように変化していくべきです。きれいに並べられた机と椅子が「秩序」を示すものなのではなく、そこに子どもたちが入り生活が始まって、少しずつ熱を帯び、机も椅子も動き出すことに着目していったらどうでしょうか。子どもたちが暮らしやすいように配置が自然と決まってくる、まさにそのことこそ「秩序」形成だ、と。
8. 自分で決める経験を
いま学校では、子どもたちが「自分で決める」場面が少ないように思います。民主主義社会は、人々が自分で決めるということで成り立ちます。その経験は、学校でこそ有効に用意できるはずです。結果の良し悪しではなく、自分で決めたという事実こそが重要。
市民にとって本来重要なのは、何をうるかよりも如何にしてうるかであり、権利のもたらす果実よりも権利の存在そのものであるという観念は、戦後世代になお一貫して定着していないようにみえる。
つまり、ここには、みずからの下した悪しき決定は、その成果をみずからの責任として苅りとらねばならないとしても、なお何らの発言権なしに自己の利益のためにとられた一方的措置よりも好ましいものである、というデモクラシーの原理的認識が、まだ相対的にみて稀薄なわけである。
これは、宮田光雄著『現代日本の民主主義』(岩波新書、1969年、132~133頁)からの引用です。もう、50年以上前の本です。その段階ですでに民主主義の原理が希薄だ、定着していないと指摘されているわけです。今日に至っても状況は変わっていないと思います。定着しないにもほどがあります。
子どもたちの行動を管理し、統制しようとするから、そこに「指導」が必要になるのであって、それがなければ、子どもたちの相互の関係の中から、問題を解決するにふさわしい方法が(時間はかかるかもしれないが)考え出されるはずです。そのためには、子どもたちの一見すると「はみ出す」ような行動に、おとなたちがどれだけ「がまん」できるか、が重要になってきます。
9. 「準備」ではない学びを
学校経験が長くなるほど、子どもたちはどんどん「考えなくなる」のではないかと思います。つまり、学校に行けば行くほど教育の権利がどんどん侵害されているということになるわけです。なぜ、こんなことが起こってしまうのでしょうか。
それは、将来のための「準備」だと言われながら学習しているからではないでしょうか。いま、ここで学んでいる内容自体に意味を見出すのではなく、それが将来の自分の生活保障の条件になっているから意味があるのだと言われているわけです。子どもにとって、この状況は強烈な脅しになります。学級のなかは、失敗が許されない雰囲気となるでしょう。失敗した者は、他の子どもたちからは、「あのようになってはならない見本」のように見られ、近づかないほうがいい存在にさせられていくのではないか。当然、排除の力が働き、実際に、いじめの対象になったり、あるいは、特別支援が必要だと言われて、学級から消えていくことになるかもしれません。
「準備」という発想は、学校教育を成立させるためには非常に便利です。まさに「予測不可能」という現在の教育政策が得意とするフレーズと同じで、漠然とした将来への不安を掻き立て、「どうなるかわからないぞ」と言われてしまうのですから、とにかく必要だと言われたものに対応していくしかありません。自分の意志とは関係のないことを、かなりの時間をかけて成し遂げていかなくてはならないわけで、相当につらいはずです。しかし、うまく成果を出せばほめてもらえるのだから、子どもとしては「がんばる」しかないわけです。
このような発想は、人生の最初の時期にまでどんどんと遡って「準備」していくことを正当化してしまいます。将来の生活の安定のために高い学歴を取得することが必要とされ、そのために塾に通い、家庭学習に一生懸命になり、保護者もその養育態度が問われ、良い成績に結びつくような家庭環境の整備に必死になっていきます。3歳から掛け算の学習を始めたりするケースも珍しくなくなってきています。この罠からなかなか抜け出せない。
このような「準備」は、どんどん低年齢化していき、また、家庭や親の責任にまで話が広がっていきます。子どもたちは、小学校に入る前から、ず~っと「準備」に追われています。一体いつ「本番」が来るのでしょうか。たぶん、それは来ないでしょう。自分の本心から立てた目標ではなく、「困るぞ」と脅されているだけの、準備のための準備だからです。
では、この「逆算」の思考をもっとつづけ、遡っていくと、どこに行きつくのか。
家庭・親 → 学校(学歴) → 就職(生活条件) →:相関関係
???? ⬅ ⬅ ⬅ ⬅ ⬅:逆算の思考
おそらく「遺伝子」でしょう。「優秀な」遺伝子が欲しい、ということになるわけです。つまり、優生思想につながっていく発想です。能力主義に基づく、優生思想。これが、日本の学校教育を支えている原理なのです。この部分から、根底的に変えていかないと、さまざまに語られる教育問題は解決しません。
この点は、2022年9月に出された、国連の障害者権利委員会からの日本政府への勧告の中でも指摘されています。つまり、「優生思想や能力主義的な考え方と、そのような考え方を社会に広めたことに対する法的責任との闘いを目指して津久井やまゆり園事件を検討すること」(Review the Tsukui Yamayuri-en case aiming at combating eugenic and ableist attitudes and legal liability for promotion of such attitudes in society)と。具体的に、あの障害者虐殺事件を挙げて、指摘されたわけです。
おわりに ―憲法の25条と26条を切り離す―
「逆算」するのではなく、家庭環境と学歴、学歴と生活条件との間の相関関係を断ち切るような思考をしたいと思います。そうでないと、教育への権利も生存権も確保されている状態とは言えなくなってしまいます。学校では、何のための「準備」なのかを真剣に問う余裕は与えられず(教員も子どもも)、ただ将来への不安があおられていくだけです。がんばらないと(努力しないと)いけないし、効率も求められる。本来は、今まで知らなかったことを知る、そのこと自体でかなりの刺激を受けるはずなのですが、「準備」と言われると、「役に立つのかどうか」が気になってしまいます。すぐに「成果」が出ないと焦ってしまいます。
学校での「成功」が「生活(生存権)」と結びついている(と信じられている)ので、その不安に駆り立てられて、「準備」するしかないのが現状です。それは、「逆算」的思考を一般化させます。おそらく現在では、どの大学でも、新入生に対して、まだ授業が始まる前から就職についてのガイダンスが始まっています。理由は、将来の目標(といっても「就職」ということ)から「逆算」して大学での4年間の過ごし方を設計するため、ということです。
日本国憲法の第25条は「生存権」の規定であり、人として最低限度の生活が保障されるよう国にその責任を課しています。しかし、実態(思い込みも含めて)としては、高学歴者のほうにより安定的な生存権が確保されています。生活保護はバッシングを受けるわけです。したがって、生存権を確保するためにわたしたちは、一生懸命になって学歴を獲得できるような(学校での成績を上げるような)学習に没入していくしかありません。この学習は、いかに他者の要求に従うかの競争でもあります。つまり、いかに受け身になるかの競争(=積極的受け身)をし、それに勝ち抜いた者が生存権を確保される、ということになるわけです。
日本国憲法の第26条は「教育権」の規定です。教育が権利である限り、それは「自由」によって支えられていなければなりません。ところが、学校での学びは、生存権を人質に取られているので、自由に学ぶことができません。自分の知りたいことよりも、教員が提示する知識内容に関心を向け、それを効率よく習得することに邁進するしかない。
こうしてわたしたちは、生存権も教育権も売り渡し(放棄し)、自発的に隷従していくことになります。いったい誰(何)に隷従しているのか。その解答は複数あり得ますが、たとえば、国家としての経済発展に寄与する人材になれと言っている者への従属・・・。いずれにしても期待されているのは、「人材(財)」としての人間であり、道具(手段)としての存在になること、そうなることが権利の保障だと言える人間になること、ということでしょう。
教育を保障するはずの「制度」がかえって学びの権利を奪っているのが日本の現状です。日本国憲法の第25条と第26条との不幸な結びつきを解きほぐしていかないと教育が優生思想を正当化する方向にどんどん進んでいってしまいます。
準備としての学びではなく、知ること、考えること自体に意義があり、それゆえに生活が楽しくなるような学級を、子どもと教職員とがともに創造できるような活動を模索したいと思います。そのことがそのまま子どもの人権保障になっていくはずです。
10/8練馬区教育委員会委託 子育て学習講座『教育・学校での "子どもの権利"を学ぼう』
練馬区教育委員会委託 子育て学習講座
教育・学校での
"子どもの権利"を学ぼう
「子どもの権利条約」は、1989年11月20日(世界こどもの日)に、
国連で成立。日本は、1994年に批准しました。
2021年には、東京都が「こども基本条例」を全会一致で可決しました
……が、実際の子どもの現状は、どうでしょうか…?
今回は、教育、学校現場での「子どもの権利」に焦点をあて、学びます。
講師:池田賢市さん
中央大学文学部教育学 教授
1962年生まれ
著書に『教育格差』(共編著)
『学びの本質を解きほぐす』
『学校で育むアナキズム』他多数
詳細
【日時】10月8日(日) 18~20時 ※開場17:30
【会場】貫井図書館・視聴覚室
※西武池袋線・中村橋駅 徒歩3分
【予約】不要(当日会場受付)
【参加費】100円(資料代)
【定員】20名(先着順)
【対象】保護者、教育や子どもの権利に
関心のある方等、どなたでも
【企画・運営】ねりまチャイルド
(練馬子どもの権利条例準備会)
【練馬区教育委員会委託 子育て講座】 一緒に、子どもの権利条約を学びましょう 第2回「遊びは子どもの主食です」開催レポート
10月2日(日)14時~貫井図書館で、
一緒に、子どもの権利条約を学びましょう
第2回「遊びは子どもの主食です」
を開催しました。
子どもにとって、遊びがどれだけ大切か、よくわかる講座となりました。
レポートをぜひお読みください!
【はじめに~好評の「算数教室」からスタート!】
■「プチ・びっくり算数教室」
前回の感想で人気だった「算数」コーナー。
今回は……
氷結!!?
缶チューハイの勉強……ではなく、折り紙です。
先生が歌う『氷結サンバ』を聴きながら、
「吉村パターン(ダイヤカット)」
と呼ばれる折り方を体験しました。
生活のなかで、立体図形をつくり、発展させていく。
科学って、身近なんですね!
【あたり前の子どもの姿 ~コロナ禍に考える】
■私たちはすべての子どものしあわせ実現を目指す、研究的共同実践者
☆すべての子どものしあわせ
☆子どもにとって一番良いこと
…のため
■コロナ禍の一斉休校 ~子どもたちは何を望んでいた?
◇3000人近くの小学生にアンケート
・1位「遊ぶのが好き」55.6%
・2位「友達を大切にする」38.8%
◇セーブ・ザ・チルドレン「緊急子どもアンケート」ワードクラウド
・「友だち」が一番言葉の批准が大きかった
◇国立成育医療研究センター「コロナ×こども」第1回アンケート
Q:子どもたちの困りごと
・1位「お友だちと会えない」
・2位「学校に行けない」
→1、2位はセット
◇皆さんのまわりの子どもたちの様子は?
■遊動 ~人類史・進化史から考える子どもの本質
◇理研「赤ちゃんの泣きやみと寝かしつけの科学」(2022/9/14)
・輸送反応
→哺乳類の赤ちゃんに生得的に備わっている、運ばれるときにおとなしくなる反応。
◇参考「人類史のなかの定住革命」
・一か所に留まるようになったのは最近のこと
・1万年くらいしないと変わらない
◇次に来るのは新たな遊動の時代か
・前京大総長・山極壽一
・参考『スマホを捨てたい子どもたち』ポプラ新書
◇人の心の成立には
・非認知発達科学の視点から~明和政子
・共同養育、他者への共感、サルまね(模倣)
・サルはサルまねできない…できるのは人間だけ!
◇子どもは遊んで・動いて・人とつながって・学んで 育つ!
■日弁連からの提案
・4つの基本原則が足りないのではないか
→「第5条の3」に「遊ぶ権利」を
・「遊ぶ権利は最も子どもらしい権利である」
【子どもが子どもらしく生きて育つための基盤 第31条】
■第31条は子どもの「文化」の権利
◇子どもが子どもらしく生きて育つための権利(子どもの文化権)
①休息・余暇
②遊び・レクリエーション
③文化的生活・芸術への参加
◇この訳語で合っているか?
・英語で書くと…
①rest and leisure
②play and recreational activitires
③culutural life and the arts
■休息・自由時間(rest and leisure)
◇休息
・国連ゼネラルコメント「休息の権利は、子ども達の最大限の健康と幸福を保証するために、子ども達が、仕事、教育、あらゆる種類の激しい活動からの十分な小休止を与えられることを求めている。
また、子どもたちに十分な睡眠が与えられることも求めている」
◇自由時間
・「余暇は、子どもたちが好きに使える自由な時間」
・日本語のレジャーには余暇を利用して楽しむことの意味があるが、leisureにはその意味はない
・国連ゼネラルコメント
余暇とは…「自由で束縛のない時間」
「主として、子どもが思うように使用できる自由裁量の時間」
・つまり
=子どもが好きに使える自由な時間
=何もしない時間も認められる、ぼーっとする権利
◇参考『学ぶ脳』
「ぼんやりにこそ意味がある」
「ぼんやりの中でひらめきが生まれる」
「脳の流儀で学べ!」
・基本系ネットワーク(デフォルト・モード・ネットワーク)
→ぼんやりしたときに活動する
→様々な気づき、創造のきっかけ、社会的認知~自己と他者の関係
◇算数とぼーっとする権利の関係
・デカルト→体が弱い→学校で「寝てていい」と言われて寝ながら勉強していた→脳が動いていた?
・「ぼーっとするな」と言っていたら、新しいシステムは生まれない!?
■遊び・レクリエーション(play and recreational activities)
◇「遊びは子どもの主食。成長発達のためのエネルギー源です」
「あそびは自由な時間から生まれる」
「レクリエーションは子どもを生きかえらせる」
◇コロナ禍でも「子ども時代」を保障する創造的な代替策を
・国連子どもの権利委員会2020年4月に声明
・「(31条の)権利を子どもが教授できるようにするため、創造的な代替策を探求すること(1日最低1回の屋外活動など)」
・「子どもの意見を考慮すること」
◇それでも子どもたちは遊んでいる
・名もない遊び、小さな遊び
例:ふりかけ交換(中学校)←コロナ前はおかず交換が流行っていた
例:お地蔵さん
◇子どもの権利と行政
- 神戸市「休校期間中の子どもを対象としたNPO等への活動助成」
・コロナが始まってすぐやった
「屋外限定」「各回10人限定」「非接触の内容」「公共交通機関を利用しない」
・アフタフバーバン「晴10活動」→3散(分散・拡散・発散)で遊ぼう!
・子どもとも相談し、話し合って(作戦会議)
・外遊びとお菓子パーティ、気配斬り
・昔の遊びは3密じゃない!
- 福岡県の学童保育(教育のつどい2021より)
・ソーシャルディスタンスババ抜き、〃チャンバラ、〃ダンス
・楽しく遊んでいても不安
・秋まつり、初のハロウィン
緊急事態宣言
→パネル返しゲーム「パンデミック」
→大声大会「自粛ストレスを発散せよ」
→3”蜜”トッピング「クラスターパン」
→サイレンが鳴りマスク警察、自粛警察が追いかけてくる!
☆行政もこういうことをやってほしい!!
◇日本医師会と日本小児科学会も…
・遊びをすすめるポスターを制作
・ホームページから頼むと送ってもらえるそうです
◇韓国の地域児童センターに学ぶ(下記)
■文化的生活・芸術への参加(cultural life and the arts)
◇「子どもは文化的生活をとおして自分を知り、他人を知り、人として育ちゆく」
◇韓国の地域児童センターに学ぶ(下記)
【日本の子どもに「子ども時代」を ~世界・日本の歴史から学び・対話しながら】
■子ども市民とともにつくる地域へ ~韓国地域児童センター調査も参考に
◇地域児童センター
・韓国・児童福祉法に基づく
・日本で近いのは学童保育
◇基本的生活の保障
・子どもの貧困対策を国家で
・公的予算でご飯を保障
・夕食が全部出る(人件費、食材費すべて)
・夏休みはお昼も
◇子ども自治
・遠足に行く場所→子ども自治会で決める
・大人→美術館、博物館⇔子ども→サウナ、映画館→そこも行く
◇遊び場プロジェクト発表会
・地域住民・若者の意見を事前にヒアリング
・区長、公務員、区議会議員を招待
・作りたい遊び場、現在の遊び場の改善点、ヒアリングした意見をプレゼン
→区長が感動
→遊び場ができた!
◇サンマル(山の端)遊び場開場式辞
・子どもに挨拶させた
・「遊び場は、子どもたちがあそ部ところなのになぜ子どもたちの意見を聞かないのかと」
・センター長「子ども達は、ぼやいて他人のせいにするより、自ら努力する過程を経験」「連帯して成長した」
◇子ども図書館
・子どもたちが自分たちでつくった
・ソウル市からお金が出る
◇ソウル市から音楽の先生を派遣(2018年)
・オーケストラまで上達!
・ソウル市からお金が出る
◇ユニセフ こどもにやさしいまちづくり
・銀行の3階
・「遊びキュレーター」
■子ども時代の享受
◇国連・子どもの権利委員会勧告
・「社会の競争的な性格により子ども時代と発達が害されることなく、子どもがその子ども時代を享受することを確保するための措置をとること」
→31条の見直しが重要!
・「遊ぶことをやめない、学ぶことをやめない、つながることをやめない」
「ボクがボクであるためにワタシがワタシであるために」
「自分で考える、仲間と考える、思ったことを声に出す」
「『一番いいこと』を見つけ出すために!」
【Q&A、感想】
■参加者Q1
・子どもの権利、大人に置き換えてもいいのか?
↓先生A
・すごく大事な問い
・じゃあ大人の権利はどうなの?と考える
・子どもと一緒に楽しめるかが問われる
・大人の生活が問い直される
・休息、余暇、遊ぶ、文化の権利→大人も大事にされなきゃいけない
(例)ドイツ→学費無料、6時間労働、数か月に一回外国に旅行、夏は3週間バカンス…
(例)デンマーク→16時には毎日帰宅
・子どもの権利と同時に、大人の権利・生活も大切にしないと、子どもに厳しくなる
・子どもの権利と大人の権利→セット!
■参加者Q2
・若い頃は忙しくて『子どもの権利条約』を読めなかった
・若いママさんの悩みを聞いていて思うのは…
・学校の先生が、権利条約を勉強する時間がないのでは
・そっちに時間を割いてもらいたい
↓先生A
(例)学校アンケート
・子ども「教室でのんびりできるようにしてほしい」
→カーペットとソファがほしい、教室でお茶が飲めるようにしてほしい…など
→校長、先生が賛成
→教育委員会「子どもが言うならOK」
→カーペット、ソファ、湯沸かし器、ついでにココアまできた!
・子どもの権利がわかると、環境がよくなる!
・先生、学校にとってもいいことばかり!
・「権利」難しい言葉だが…
→子どもも一緒に生活をつくっていく仲間と考えると、楽しい先が見える
【参考文献】
『市民力で創る子育てとコミュニティ』
『ワニブタ絵本ガイドブック』
『子ども白書2022』
『子どもの権利条約ゼネラルコメント(総合的解説)No.17』
『学童保育研究の課題と展望』
【練馬区教育委員会委託 子育て講座】一緒に、子どもの権利条約を学びましょう 第2回「遊びは子どもの主食です」
【練馬区教育委員会委託 子育て講座】一緒に、子どもの権利条約を学びましょう
第2回「遊びは子どもの主食です」
※第1回レポートはこちら↓
9/4【練馬区教育委員会委託 子育て講座】一緒に、子どもの権利条約を学びましょう 第1回レポート
「子どもの権利条約」は,1989年11月20日(「世界こどもの日」)に国連で成立し、日本政府は1994年に批准(同意)しました。
昨年3月には、都議会で「東京都こども基本条例」が全会一致で可決されました。
👩差別なく 大切にされます。
👦子どもには 自由があります.
👦子どもは 暴力から守られます。
👩自分の考えを 自由に言えます。
👩ゆっくり 休んだり 遊んだりできます。
👦自分の持っている力を 伸ばすことができます。
子どもの権利について話してくださる
斎藤史夫先生(家政学院大准教授)を講師に招き、
「子どもにとって権利であり"主食"である、あそび」
について、大人も子どもも一緒に学びましょう!
詳細
🌻日時:2022年10月2日(日)14:00~16:00
🌻対象:子育て中の保護者、子育て・子どもの権利条約に関心のある方ならどなたでも。定員30名
🌻会場:貫井図書館・視聴覚室(西武池袋線中村橋駅下車徒歩5分)
🌻参加費:200円(資料代)
🌻予約不要。当日会場受付
🌻企画・運営:ねりまチャイルド(練馬子どもの権利条例準備会)
9/4【練馬区教育委員会委託 子育て講座】一緒に、子どもの権利条約を学びましょう 第1回レポート
9月4日、ねりまチャイルド主催の
【練馬区教育委員会委託 子育て講座】一緒に、子どもの権利条約を学びましょう
その第1回「子どもにとって、当たり前に大切なこと(権利)」
を開催しました。
講師は、東京家政学院大学 生活デザイン学科准教授
の齋藤史夫先生。
ちなみに、ろう者の学生が入学したのをきっかけに、「近畿大学マスク」を着用することにしたそうです。
当日は、透明ですが、気流も研究された、しっかりしたマスクで、ご講演頂きました。
【経歴】
「子ども白書」の編集委員会事務局長
子どもの権利条約市民NGOの会専門委員31条の会
ふみちゃんのびっくり算数教室「YouTuberふみちゃんと算数少女隊」
「子どもの権利条約31条のひろば」
まず、自己紹介をかねて
「算数ショー・フィーバー」
参加者2人に出ていただき、ある計算をしていただきます。
17の位になると驚きの結果に…!?
会場から拍手拍手!
盛り上がったところで、講座のスタート!
【1】地球時代を生きる子どもたちとともに
1)地球上に存在するすべてのものが一つの絆によって結ばれている「地球時代」
今年の子ども白書には…
①コロナの影響
②気候危機は子どもの権利の危機
③ウクライナ
「子どもたちの手には食器と楽器と文房具を」
「対話を!」
という、今の問題も掲載されています。
地球全体の問題が、日本の、地域の子どもにもつながっている、それが「地球時代」。
2)世界で対話し深められ実現をめざす子どもの権利
「子どもの権利条約」の理念は、第二次世界大戦の反省から生まれました。
1951年 児童憲章
1959年 児童権利宣言
1979年 国際児童年
→ここでポーランドから「宣言より条約を」との意見が出て…
1989年 子どもの権利条約ができました!
そして
1994年 日本批准
となりました。
3)私たちはすべての子どもの幸福をめざす世界の一員
自分は
「研究的共同実践者」
であると、先生は強調します。
子どもたちとともに、研究しながら、実践していく。
たとえば実際に、子どもたちにアンケートをとり、子どもの声で、
教室にソファやココア!
が実現した公立学校もあるそうです。
(驚き&素晴らしいですね…!!)
「共同研究のよさ」は、「研究には失敗がつきもの(笑)!」
だから、失敗してもいいや~とトライできるところ。
折り紙で日本の模様を切り抜くシンメトリーについて教えていたら、
小学生が、
「図鑑もっていっていい?」
と、動物の切り抜きを始めたことが。
自分のすきなものについて、子ども自身が気づくきっかけになったそうです。
【2】子どもにとってあたりまえに大切なこと
①すべての子どものしあわせ
②子どもにとって一番良いこと
が重要とのこと。
1)権利?ザッツライト!
「権利」ときくと、日本語では重い印象ですが…
「RIGHT」
→英語では日常用語!
「All Right」
「That' Right」など。
だから、"あたりまえ”なのだそうです。
2)ひとが定住したのは、わずか1万年
それまで人類は、ずっと流動的な暮らし方、共同養育をしてきました。
子どもは、
あそんでうごいて
ひととつながって
まなんで
そだつ……
子どもは動き回る、跳び跳ねる!
流動的なのが、子ども。
2)4つの基本原則
①差別の禁止
②子どもの最善の利益(Best Interest)
③生命および生存・発達の権利
④意見を聞かれる権利(意見表明権)
3)権利の保有者としての乳幼児
声なき声を聴く、「乳幼児の意見および気持ちの尊重」も重要。
4)子どもの声をきき、話し合う
ホリスティック(全体的)
→それぞれの条文がかかわり合い、トータルで考える必要がある、とのこと。
【子ども時代を保障する6つの権利】
①子どもの生きる権利、命と健康が守られる権利(生存権)
→増える子どもの自殺
②安心して生活が守られる権利(生活権)
→生活がコロナでさらに厳しく
貧困層12.9%
準貧困層36.9%
③学ぶ権利、わかるように教えてもらう権利(学習権)
→増える不登校
「ぼくもうがっこういかない」
→フリースクールへ
④楽しく遊び、想像力を羽ばたかせていく権利(遊ぶ権利、文化権)
Leisure→自由な時間
英語には、日本語のような「余暇」の意味ない
日弁連も「休息、余暇も必要」と提言しています。
⑤失敗できる権利、やり直し立ち直っていく権利(更正権)
失敗をやり直して成功体験に変えていく
⑥取り仕切り、参加していく権利(自治権、社会参加権)
こどもにも、結社・集会の自由がある!
先生は、「作戦会議!」と題し、コロナでもできることを話し合う子ども会を開いたそうです。
そのなかで「昔のあそびは3密じゃない!」と気づく子どもたち。
たとえば…
- 気配斬り→2メートルの刀で目隠ししてチャンバラ
- 缶けり
- 鬼ごっこ
- かくれんぼ
【3】日本の子どもに子ども時代を
国連・子どもの権利委員会からも、日本へ勧告が出ています。
参考)2012年『うばわないで!子ども時代』
2019年勧告
「社会の競争的な性格より、子ども時代と発達が害されることなく、子どもがその子ども時代を享受するための措置を取ること」
【参考】韓国の子どもたち
■地域児童センター(日本の学童のようなもの)
- 7割が貧困の地域
- ドリームスタート事業
- 夢の出発に差別をつくらない
- すべての貧困の子どもにケアを、という理念
- 全国4000くらい
- 音楽→オーケストラに発展したり…
→文化を保障する水準がたかい - 夜ごはんもでる、毎日
- 親が夜も働く→国からお金がでて料理
- 基本的生活を保障
■子ども市民遊び場プロジェクト
- 子どもが区長にプレゼン→実現!
- 開設後、子どもの代表があいさつ
■子ども市民として…子ども図書館プロジェクト
- 図書館をつくった
子どもたちのゆたかな生活をどうしたらつくっていけるか
→素材がすぐちかく、韓国にある。
世界と対話しながら子どもの権利を深める
ことが重要!
とのお話でした。
【4】質疑応答
Q
子どもの居場所を開いている。
子ども時代を保障するために、どうしたらよいか?
A
共同して研究して実践するしかない。
映画『パラサイト』を製作したCJグループ
→韓国の学童職員50人を日本に派遣研修
アイデアが大切
31条のひろば→現場で悩んで交流している
考えてひろげていこう、ムーブメントに
【練馬区教育委員会委託 子育て講座】一緒に、子どもの権利条約を学びましょう
【練馬区教育委員会委託 子育て講座】一緒に、子どもの権利条約を学びましょう
第1回「子どもにとって、当たり前に大切なこと(権利)」
「子どもの権利条約」は,1989年11月20日(「世界こどもの日」)に国連で成立し、日本政府は1994年に批准(同意)しました。
昨年3月には、都議会で「東京都こども基本条例」が全会一致で可決されました。
👩差別なく 大切にされます。
👦子どもには 自由があります.
👦子どもは 暴力から守られます。
👩自分の考えを 自由に言えます。
👩ゆっくり 休んだり 遊んだりできます。
👦自分の持っている力を 伸ばすことができます。
子どもの権利について話してくださる
斎藤史夫先生(家政学院大准教授)を講師に招き、
「子どもにとって、当たり前に大切なこと=権利」
について、大人も子どもも一緒に学びましょう!
詳細
🌻日時:2022年9月4日(日)14:00~16:00
🌻対象:子育て中の保護者、子育て・子どもの権利条約に関心のある方ならどなたでも。定員30名
🌻会場:貫井図書館・視聴覚室(西武池袋線中村橋駅下車徒歩5分)
🌻参加費:200円(資料代)
🌻予約不要。当日会場受付
🌻企画・運営:ねりまチャイルド(練馬子どもの権利条例準備会)