ねりまチャイルド ~練馬区で「子どもの権利条例」制定をめざす会

ねりまチャイルドは、練馬区で「子どもの権利条例」制定をめざし、活動する団体です

池田賢市先生講座 『教育・学校での”子どもの権利”を学ぼう』レポート(練馬区教育委員会委託 子育て学習講座)

2023年10月8日、貫井図書館にて、
池田賢市先生(中央大学)を講師にお招きし

練馬区教育委員会委託 子育て学習講座
『教育・学校での”子どもの権利”を学ぼう』

を開催しました。

池田先生のレジュメがとてもわかりやすくまとまっているので、許可を頂き、そのまま掲載いたします。

当日来られなかった方も、ぜひご覧ください!

 

はじめに 

子どもの権利条約」は、1989年11月20日、国連総会で満場一致で採択されました。

締約国は196か国(地域含む)。歴史上もっとも多くの国(地域)が参加している条約です。

日本の批准(=条約を承認し実行するという国としての最終的な同意手続き)は1994年で、158番目。これはかなり遅い批准でした。

 では、なぜ、この条約が大切なのか。

 もちろん、その「内容」の重要性(後述)があるのですが、その前に「形式」的な重要性があります。それは、国際条約に批准した場合、その条約は、その国の国内法よりも上位の効力をもつことになる、というものです(憲法→条約→法律・・・)。そして、日本国憲法の第98条に「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と謳われています。つまり、日本の国内の法律(少なくとも子ども施策に関するもの)は、「子どもの権利条約」の趣旨に沿っていなければならず、必要があれば法律改正も行われねばならない、ということになります。

 国連は、条約批准国がしっかりとその趣旨を踏まえた国内施策を展開しているかどうか審査をします。これまで日本は「子どもの権利条約」をめぐる審査で、教育が過度の競争にさらされていることなど多くの指摘を受けてきています。しかし、その改善はまったく進んでいません。わたしたち自身が、この条約の内容・趣旨を学び、その視点から国内のさまざまな施策をチェックしていく必要があります。

 

1. 条約の内容構成 

条約の内容は、次の4つに分類されます。

    →生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利

 重要な点は、「参加する権利」です。これまで「子ども」といえば「弱い存在」なのだから、まずは「守られる」必要があるという認識でした。もちろん、それは大切なのですが、この条約の重要性は、社会を構成しているメンバーとして子どもには「参加する権利」があることを確認した点にあります。

 

2. 子どもの最善の利益 

 「子どもの権利条約」のキータームは、「子どもの最善の利益」です。

第3条を見てみましょう。

 

[第3条] -子どもの最善の利益―

子どもに関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、子どもの最善の利益が主として考慮されるものとする。

 

子どもに関するさまざまな施策は「子どもの最善の利益」を優先してつくられていくべきだということですが、では、何が最善であるかを誰がどのようにして知ることができるのか。結局は、「おとな」が「その経験を活かして子どものためを思って考えていくことになるんだよね」というように理解されやすいのですが、この認識は誤りです。

「子どもの最善の利益」を条約の原文である英語(国連の公用語は6か国語ありますが、日本政府は英語から翻訳することが通常ですので英語を見てみます)でどう表現されているかを確認してみると、the best interests of the childとなっています。「利益」と訳されている部分は、interestsとなっています。interestsは、(ここでは複数形になっているので)利益や利権という意味で使用される場合もありますが、「興味」「関心(事)」といった意味が元です。もし、条文のこの部分を「子どもが最も関心をもっていることを主として考慮するものとする」と訳していたら、だいぶイメージは変わるのではないでしょうか。

 この第3条の趣旨がこのようなものだとすれば、「結局はおとなが決める」という認識は成り立ちません。何に興味があり、何に関心をもっているのかを知るには、子ども本人に聞いてみるしかありません。そこで、第12条の「意見表明権」へとつながっていくわけです。

(この第3条は第12条と合わせて理解されることになっています。)

 

3. 子どもの意見表明権 

[第12条] -意見表明権

締約国は、自己の意見を形成する能力のある子どもがその子どもに影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

 

これは、「子どもの権利条約」の中でも極めて重要な条文とされています。条約のポイントは、「参加する権利」でした。その「参加」をしっかり保障していく大前提が、この第12条の「意見表明権」です。

つまり、子どもたちは、自分に関するさまざまなことがらについて意見を言うことができる、ということです。もう少し踏み込んで言えば、たとえば、子どもにかかわる政策を決定しようとするときには、子どもたちの意見を聞かなくてはならない、ということになります。「政策」というかなり大きな決定であっても、子どもには必ず意見を表明する権利が確保されていなければならない、ということになります。

もちろん、おとなの側の責任としては、単に意見を聞けばいいだけではなく、それを十分に尊重した決定をしなければならない、ということになります。そうでなければ、ただ言わせているだけになってしまいます。(日本では、発言の機会さえ確保されていない・・・)

これについて、子どもの側にも、責任をもって発言することが求められてくる、という意見もあります。しかし、これを強調しすぎると、結局、子どもは発言できなくなります。

 

4. 意見表明権への「誤解」 

おそらく「意見表明権」の趣旨そのものに反対する人は少ないかもしれませんが、意見を言うためには、「ある程度、言語による表現力がついている子どもでないとなかなかむずかしいのではないか」と感じる人も多いかと思います。

このような印象をもって条文を読むと、「自己の意見を形成する能力のある子ども」という部分は、まさにそのような意味に読み取れてしまいます。具体的に言えば、たとえば、小学校の3・4年生くらい、あるいはやはり6年生ぐらいにならないと自分の意見を伝えるというのは難しいのではないか、だから、そのような能力を高めていく教育が必要だ、と。

また、「子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮される」という部分も、たとえば、幼稚園児が言ったことは、6年生が言う意見とはかなり質が違うだろうから、まだ幼い子どもが言ったことについては、未熟なのだということを考えた上で、ある程度は取り入れたとしても、全面的に信用することにはならないのではないか、と。

 

実は、このように解釈することは「まちがい」です。趣旨は、まったく反対のことなのです。では、どう解釈するのか。

わかりやすく言えば、生まれたばかりの子どもにも「意見を形成する能力」があるととらえます。なぜなら、不満があればしっかりと泣きますよね! これは立派な意見表明だ、と考えるわけです。まさに赤ちゃんは、自分にかかわることについて、つねにしっかりと反応しています。

つまり、「自己の意見を形成する能力」の<ある子ども>と<ない子ども>がいて、<ある子ども>に対して認められている権利だということではなく、子どもというものは、そもそも「自己の意見を形成する能力」がある存在なのだ、とこの条文は言っているわけです。

これまでのいろいろな国際条約や宣言では、子どもは保護される存在としてしか考えられてきませんでした。それに対して、この「子どもの権利条約」は、これまでの子ども観をガラッと変えて、子どもというものは自分の意見を述べることができる存在であり、社会に参加する権利をもっている存在なのだ、と位置づけなおしたわけです。

 

もちろん、うまく意見が言える子どももいれば、なかなかことばにならない子どももいます。(意見は常に言語によってなされるとも限りません。) だからこそ、「子どもの意見は、その子どもの年齢及び成熟度に従って相応に考慮」されなければならないわけです。条文のこの部分は、しっかりと意見の言える子どもの意見をより尊重するという意味ではなく、どんな子どもも正しく自分の意見を述べているのであって、ただその表現が伝わりにくいこともあるから、その子どもの特徴(年齢や成熟度など)をおとなの側はしっかりと意識(配慮・考慮)して、その意見を理解していくようにしなければならない、ということを述べているわけです。

赤ちゃんが泣いている場合、何らかの意見が表明されているわけですが、おとながすぐに理解できるような表現方法ではありません。そこで、この子がいま泣いているのはなぜなのかを正しく理解する努力がおとなの側に求められている、ということになります。

 

5. 学校が想定する子ども観の問題性

 赤ちゃんに限ったことではなく、どんな子どもの意見も、正しく理解されていくためには、日頃からコミュニケーション(人間的な環境の中で生活し、かかわりを深めていくということ)が活発に行われていなくてはなりません。そこで一定の信頼関係がつくられていくことで、意見は正しく理解され、また、子どもも、どうすれば正しく伝わるかを学んでいきます。

 ところが、日本では、意見表明権に関しては、学校現場になかなか浸透していません。理由として、子どもに意見を言わせると「わがまま」になってしまう、という懸念が多く語られています。「意見を言うこと」と「わがまま」とは全く異なるものですが、どうやら学校ではそのようにとらえてしまうようです。子どもは「教育される」存在、つまり「受け身」の存在とみられているからでしょう。学校に子どもたちが「参加」していくことが日本の教育現場ではなかなかイメージしにくいのだと思います。

 この壁をどう打ち破っていくか。学校(教員)ばかりではなく、おとなたち全体がもっている「子ども観」を問い直していくことが必要になってきます。

 では、学校は、どんな「子ども観」を前提としているのか。

 子どもを「動物」「白紙」「植物」などにたとえて教育をイメージすることは、これまで教育学の世界ではよく語られてきました。動物に芸を仕込むように知識の伝達をイメージしたり、子どもは何も知らないのだから、その状態を白紙にたとえ、そこに文字を印刷するように学習計画を立てていくべきだとイメージしたり、あるいは、子どもは植物の種のように、育っていく要素はすでに持っているのだから、それが発芽し伸びていくために必要な(水分や日光といった)環境を整えることが教育である、とイメージしたり。

 これらの比喩は、教育現場のいろいろな場面でいかにも当てはまりそうですが、なぜ、子どもをわざわざ人間以外のものにたとえなくてはならないのでしょうか。おそらく、子どものことを「未熟」な存在だとみなしているからでしょう。というより、未熟どころか、子どもは「人間」ではないと思われているわけです。だから、教育によって「人間」にするのだ、それが学校の使命なのだ、というイメージになります。子どもには何か「欠けている」ところがあると想定し、それを「完成」していく過程を教育と呼んでいるわけです。

 ここで、ぜひ自分が「子ども」だったときのことを思い出してください。自分は何かが欠けている存在だと思って過ごしていたでしょうか。「欠けている」どころか、むしろ、「充満」していたのではないですか。いろいろなことを考え、悩み、将来のことにも思いをめぐらせていたはずです。当たり前ですが、しっかりとした「人格」を備えてもいます。「大人」から見て「未熟」に見えるのは、経験の差で説明できるものであったり、あるいは、単なる「違い」を、「大人」が勝手に価値を低めて「未熟」と言っているだけなのではないでしょうか。

 知識を伝えようとする相手を人間だと認識していないのだとすれば、そこでの行為が権力的支配・被支配関係を正当化していくのは当然です。かつてから、憲法の理念やその具体的な規定が学校の中に入っていかないことを批判する議論がありました。その状況は今日も変わりません。憲法(もちろん種々の国際条約も含め)で保障されている基本的人権が、こんなにも踏みにじられるのは、子どもを「人間」とみていないからです。

 

6. 学校という場の権力性

 とはいえ、学校は、知識を持つ教員が知識を持たない子どもに対して一定の内容を教えていくことを中核にして成り立っているのだから、どうしてもそこに権力関係が成立してしまうのではないか、との疑問はあり得ます。

 しかし、日常生活の中でわたしたちがつねに行っている教えたり教えられたりといった行動を思い出してみても、そこに権力的支配関係が構築されるなどということはなりません。つまり、単に「教える」という行為の必然的結果として(教えられる者との間に)「権力関係」が発生しているわけではないということになります。

 ということは、問題は学校という「場」にあることがわかります。そこで、学校の特徴を見つめ直し、その問題性を確認し、どこから修正可能かを考える必要が出てきます。

 ここで、とくに子どもから見たときの「学校の特徴」を思いつくままに挙げてみます。

 

各人には番号(出席番号等)がついている。

1日に何度も点呼を取られる。

名札を付ける。

服装が統一されている(履物や髪型等も統一される場合がある)。

持ち込める物には制限がある(持ち物検査がある場合もある)。

授業(作業の)時間や内容はあらかじめ決められている。

いつでも質問・相談できるわけではなく、手を挙げて指名されなければならない。

授業(作業)中は静かにし、発言は手を挙げ、許可されたときに可能となる。

トイレに行くときも許可が必要な時がある。

食事の時間と内容も決められている。

登下校の時間が決められている(したがって朝起きる時間に決まってくる)。

無断で外には出られない。

使用している教室などの掃除をしなくてはならない。

整列させられることが多い。

号令をかけられることがある。

規則に反すると罰則がある。

教員(管理者・監督者)の指示には従わなくてはならない。

外部とは壁(コンクリートなど比較的頑丈なもの)で隔てられている。

年に何回か全員参加の行事(教員付き添いで外部に出かける場合も)がある。

集団行動(秩序)が重視される。

一定の年数が経たないとこの環境からは出られない。

 

 この調子で列挙していけば、もっと多くの内容を加えることができるでしょう。もちろん、これらをすべて悪として否定したいのではありません。すでに察しがついていると思いますが、これに似た特徴をもつ場所が他にもあります。

 それは、刑務所、病院(入院している場合)、軍隊、そしてかなり管理された工場も加えることができるでしょう。これらの機関(環境)では、なるべく人々の自由を抑制するという共通点があります。つまり、権利に対して一定の制限をかけるわけです。その中のひとつが学校だ、ということになります。この指摘はすでにミシェル・フーコー(1926-1984年)というフランスの哲学者によってなされています。

 象徴的な共通例をひとつ指摘するとすれば、「無断で外には出られない」状況においてそれを無視してその施設から出て行けば、「脱走」と表現される、という点があります。これは、刑務所や軍隊では当てはまりますが、果たして学校や病院にも同様のことがいえるのかとの疑問もあるでしょう。しかし、病院でそのような患者をどう表現しているかはわかりませんが、少なくとも学校では、実際に、許可なく教室や学校から走り出て行った子どもに対して、「〇〇が脱走した!」と叫んでいる教員をわたしは何人も知っています。学校というところは、「脱走」という言葉と親和性があるわけです。

 このように指摘してくると、次のような反論が出るでしょう。学校は成長途上の子どもを相手にしているのであって、一定の管理・監視の下で運営されなければ安心・安全な環境が用意できない(工場ならそうかもしれませんが)、と。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 ちなみに、セキュリティ(security:安心・安全)の動詞形(secure:安全にする)には「監禁する」という意味もあります。確かに、閉じ込めておけば「安心」ですね。しかし、それは誰にとっての安心なのか。監禁状態での学習とは、いったいどんな性質のものなのか。

 以上のことからわかることは、学校は、何もしなければ、「自然と」子どもたちの権利を侵害してしまう可能性をあらかじめもたされている、ということです。つまり、一定の権力的な支配関係の中で運営されているわけです。よほど教員が注意をしておかないと、学校での教員の発言は、どんなに穏やかになされたとしても「命令的」にならざるを得ない宿命を負わされています。これは日本に限ったことではなく、学校という機関そのものが子どもの権利や人権という発想とは相性がよくない、ということでもあります。だからこそ、意識的に「人権」や「権利」という言葉を掲げておく必要があるわけです。

 

7. 「そろえる」ことにこだわらない

 では、どうすれば、このような権利侵害になりやすい環境を変えられるのか。

 まず、学校生活のさまざまな場面で子どもたちを「そろえよう」としないことです。たとえば、子どもたちを整列させる必要はなく、ただ「集まって~」と言えば、自ずと声が聞こえ、見える位置に寄って来るはずです。全体がそろうことに拘泥しないようになれば、学校行事の練習も必要ありません。一生懸命練習してしまうから、当日、練習通りにならないことが気になってしまうわけです。意外なハプニングも楽しめません。それはミスとしてマイナスに評価されていきます。せっかくみんなで笑い合えるチャンスだったのに。

 また、教室は子どもたちの生活の場なのですから、子どもたちが暮らしやすいように変化していくべきです。きれいに並べられた机と椅子が「秩序」を示すものなのではなく、そこに子どもたちが入り生活が始まって、少しずつ熱を帯び、机も椅子も動き出すことに着目していったらどうでしょうか。子どもたちが暮らしやすいように配置が自然と決まってくる、まさにそのことこそ「秩序」形成だ、と。

 

8. 自分で決める経験を

 いま学校では、子どもたちが「自分で決める」場面が少ないように思います。民主主義社会は、人々が自分で決めるということで成り立ちます。その経験は、学校でこそ有効に用意できるはずです。結果の良し悪しではなく、自分で決めたという事実こそが重要

   

市民にとって本来重要なのは、何をうるかよりも如何にしてうるかであり、権利のもたらす果実よりも権利の存在そのものであるという観念は、戦後世代になお一貫して定着していないようにみえる。

つまり、ここには、みずからの下した悪しき決定は、その成果をみずからの責任として苅りとらねばならないとしても、なお何らの発言権なしに自己の利益のためにとられた一方的措置よりも好ましいものである、というデモクラシーの原理的認識が、まだ相対的にみて稀薄なわけである。

 

 これは、宮田光雄著『現代日本の民主主義』(岩波新書、1969年、132~133頁)からの引用です。もう、50年以上前の本です。その段階ですでに民主主義の原理が希薄だ、定着していないと指摘されているわけです。今日に至っても状況は変わっていないと思います。定着しないにもほどがあります。

 子どもたちの行動を管理し、統制しようとするから、そこに「指導」が必要になるのであって、それがなければ、子どもたちの相互の関係の中から、問題を解決するにふさわしい方法が(時間はかかるかもしれないが)考え出されるはずです。そのためには、子どもたちの一見すると「はみ出す」ような行動に、おとなたちがどれだけ「がまん」できるか、が重要になってきます。

 

9. 「準備」ではない学びを 

 学校経験が長くなるほど、子どもたちはどんどん「考えなくなる」のではないかと思います。つまり、学校に行けば行くほど教育の権利がどんどん侵害されているということになるわけです。なぜ、こんなことが起こってしまうのでしょうか。

 それは、将来のための「準備」だと言われながら学習しているからではないでしょうか。いま、ここで学んでいる内容自体に意味を見出すのではなく、それが将来の自分の生活保障の条件になっているから意味があるのだと言われているわけです。子どもにとって、この状況は強烈な脅しになります。学級のなかは、失敗が許されない雰囲気となるでしょう。失敗した者は、他の子どもたちからは、「あのようになってはならない見本」のように見られ、近づかないほうがいい存在にさせられていくのではないか。当然、排除の力が働き、実際に、いじめの対象になったり、あるいは、特別支援が必要だと言われて、学級から消えていくことになるかもしれません。

 「準備」という発想は、学校教育を成立させるためには非常に便利です。まさに「予測不可能」という現在の教育政策が得意とするフレーズと同じで、漠然とした将来への不安を掻き立て、「どうなるかわからないぞ」と言われてしまうのですから、とにかく必要だと言われたものに対応していくしかありません。自分の意志とは関係のないことを、かなりの時間をかけて成し遂げていかなくてはならないわけで、相当につらいはずです。しかし、うまく成果を出せばほめてもらえるのだから、子どもとしては「がんばる」しかないわけです。

 このような発想は、人生の最初の時期にまでどんどんと遡って「準備」していくことを正当化してしまいます。将来の生活の安定のために高い学歴を取得することが必要とされ、そのために塾に通い、家庭学習に一生懸命になり、保護者もその養育態度が問われ、良い成績に結びつくような家庭環境の整備に必死になっていきます。3歳から掛け算の学習を始めたりするケースも珍しくなくなってきています。この罠からなかなか抜け出せない。

 このような「準備」は、どんどん低年齢化していき、また、家庭や親の責任にまで話が広がっていきます。子どもたちは、小学校に入る前から、ず~っと「準備」に追われています。一体いつ「本番」が来るのでしょうか。たぶん、それは来ないでしょう。自分の本心から立てた目標ではなく、「困るぞ」と脅されているだけの、準備のための準備だからです。

 

 では、この逆算」の思考をもっとつづけ、遡っていくと、どこに行きつくのか。

 

→:相関関係

家庭・親 → 学校(学歴) → 就職(生活条件) 

⬅:逆算の思考
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 おそらく「遺伝子」でしょう。「優秀な」遺伝子が欲しい、ということになるわけです。つまり、優生思想につながっていく発想です。能力主義に基づく、優生思想。これが、日本の学校教育を支えている原理なのです。この部分から、根底的に変えていかないと、さまざまに語られる教育問題は解決しません。

 この点は、2022年9月に出された、国連の障害者権利委員会からの日本政府への勧告の中でも指摘されています。つまり、「優生思想や能力主義的な考え方と、そのような考え方を社会に広めたことに対する法的責任との闘いを目指して津久井やまゆり園事件を検討すること」(Review the Tsukui Yamayuri-en case aiming at combating eugenic and ableist attitudes and legal liability for promotion of such attitudes in society)と。具体的に、あの障害者虐殺事件を挙げて、指摘されたわけです。

 

おわりに ―憲法の25条と26条を切り離す―

 「逆算」するのではなく、家庭環境と学歴、学歴と生活条件との間の相関関係を断ち切るような思考をしたいと思います。そうでないと、教育への権利も生存権も確保されている状態とは言えなくなってしまいます。学校では、何のための「準備」なのかを真剣に問う余裕は与えられず(教員も子どもも)、ただ将来への不安があおられていくだけです。がんばらないと(努力しないと)いけないし、効率も求められる。本来は、今まで知らなかったことを知る、そのこと自体でかなりの刺激を受けるはずなのですが、「準備」と言われると、「役に立つのかどうか」が気になってしまいます。すぐに「成果」が出ないと焦ってしまいます。

 学校での「成功」が「生活(生存権)」と結びついている(と信じられている)ので、その不安に駆り立てられて、「準備」するしかないのが現状です。それは、「逆算」的思考を一般化させます。おそらく現在では、どの大学でも、新入生に対して、まだ授業が始まる前から就職についてのガイダンスが始まっています。理由は、将来の目標(といっても「就職」ということ)から「逆算」して大学での4年間の過ごし方を設計するため、ということです。

 日本国憲法の第25条は「生存権の規定であり、人として最低限度の生活が保障されるよう国にその責任を課しています。しかし、実態(思い込みも含めて)としては、高学歴者のほうにより安定的な生存権が確保されています。生活保護はバッシングを受けるわけです。したがって、生存権を確保するためにわたしたちは、一生懸命になって学歴を獲得できるような(学校での成績を上げるような)学習に没入していくしかありません。この学習は、いかに他者の要求に従うかの競争でもあります。つまり、いかに受け身になるかの競争(=積極的受け身)をし、それに勝ち抜いた者が生存権を確保される、ということになるわけです。

 日本国憲法の第26条は「教育権」の規定です。教育が権利である限り、それは「自由」によって支えられていなければなりません。ところが、学校での学びは、生存権を人質に取られているので、自由に学ぶことができません。自分の知りたいことよりも、教員が提示する知識内容に関心を向け、それを効率よく習得することに邁進するしかない。

 こうしてわたしたちは、生存権も教育権も売り渡し(放棄し)、自発的に隷従していくことになります。いったい誰(何)に隷従しているのか。その解答は複数あり得ますが、たとえば、国家としての経済発展に寄与する人材になれと言っている者への従属・・・。いずれにしても期待されているのは、「人材(財)」としての人間であり、道具(手段)としての存在になること、そうなることが権利の保障だと言える人間になること、ということでしょう。

 教育を保障するはずの「制度」がかえって学びの権利を奪っているのが日本の現状です。日本国憲法の第25条と第26条との不幸な結びつきを解きほぐしていかないと教育が優生思想を正当化する方向にどんどん進んでいってしまいます。

 準備としての学びではなく、知ること、考えること自体に意義があり、それゆえに生活が楽しくなるような学級を、子どもと教職員とがともに創造できるような活動を模索したいと思います。そのことがそのまま子どもの人権保障になっていくはずです。